歴史

社会学教室小史

 

⑴ 創設期190728年)

 

社会学講座の開設

京都大学文学部(当時の名称は京都帝国大学文科大学)に社会学講座が開設されたのは1907(明治40)年5月10日、勅令第187号による。講座の設置は前年6月に京都帝国大学に文科大学が創立されるにあたって当初から予定されており[1]、1906(明治39)年8月16日制定の「文科大学規程」において哲学科の「正科目」に社会学が含まれていた。文科大学創立に際して設置された哲学科の講座は哲学・哲学史第一(哲学・西洋哲学史)、同第二(印度哲学史)、心理学、倫理学、教育学・教授法の5講座であり、社会学講座は宗教学講座とともに哲学科のなかの1講座として発足2年目に設置されたのである。

 

米田庄太郎

初代の講座担当者として招聘されたのは当時同志社普通学校高等科教授であった米田庄太郎(1873~1945)である[2]。米田は講座開設の年の9月に講師として着任し、退官までの期間、社会学関係の授業(普通講義、特殊講義、演習、講読)をほとんど独力で担当した。1919(大正8)年5月に彼が講座担任になるまでの間は、谷本富教授(教育学教授法)らが代わりに講座担任を務めた。

海外留学経験が長く、コロンビア大学大学院でF. H. ギディングスから、またコレージュ・ド・フランスでガブリエル・タルドから社会学を学んだ米田は、東京大学出身者が多数を占めた創設期の京大文科大学教官のなかでは内藤湖南らと並び異色の経歴の持ち主だった。彼は卓越した博識と語学力を活かして欧米の社会学説・社会思想の研究と紹介に力を注ぐ傍ら、同時代の風俗や社会問題や社会運動を扱った著作を公刊し、ジャーナリズムでも目ざましく活躍した。タルド、ギディングスのほかジンメルからも影響を受け、社会学の中核は「心と心の相互作用及び相互関係」を対象とする「純正社会学」であるとする立場から独自の社会学体系の構築に努めた。その成果は『現代人心理と現代文明』(1919年)、『輓近社会思想の研究』3巻(1919~20年)、『経済心理の研究』(1920年)、『現代社会問題の社会学的考察』2巻(1921)年、『恋愛と人間愛』(1923年)、『現代文化概論』(1924年)、『歴史哲学体系』(1924年)、『輓近社会学論』(1948年)などきわめて多数の著作となって結実した。また米田は、東大の建部遯吾らと協力して日本社会学院の創設(1913年)に関わり、わが国の社会学界において指導的役割を果たした。

授業では米田は特殊講義で社会進化論、現代社会論、社会学史、資本主義論、歴史哲学など幅広いテーマを論じ、演習や講読でジンメル、シュタムラー、ヴント、ベルクソン、タルド、ギディングス、パーク、スモールなど英・独・仏語の文献をテキストに選んだ。なお、このほかに米田は、ラテン語やイタリア語のテキストを授業で使用することもあり(西洋古典学講座やイタリア語学イタリア文学講座が設置されるはるか以前である)、グロッパリ『社会学鋼要』(Alessandro Groppali, Elementi di sociologia)をテキストにした1908年度の社会学講読は、京大で正科目にイタリア書を用いた最初の授業であったという[3]。なお、米田の社会学関係の蔵書3,150冊は「米田文庫」として京大文学研究科図書館に寄贈されている。

 

初期の社会学講座と「京都帝国大学社会学会」

社会学を最初に専攻して卒業した学生は高田保馬(1883~1972)ただ1人であり、演習などは文字どおりマンツーマンの形で行われた。後に経済学の分野でも名をなし京大経済学部で経済原論を講じることになる高田は、大著『社会学原理』(1919年)を初めとする多数の著作において高田社会学と呼ばれる独自の社会学理論の体系化に努め、日本を代表する社会学者となった。明治・大正期に京大で社会学を専攻する学生は後年と比べるとかなり少数で、米田在職中(1925年まで)の卒業者数は、本科生24名、選科生11名、委託学生2名の計37名だった。もっとも、当時の京大文学部(1919[大正8]年に文科大学から改称)ではどの専攻も同様に学生数は少なく、社会学が特に不人気だったわけではない。また、当時の学生は哲学科に入学した後2年目に専攻科目として社会学を選択する制度になっており、社会学講座は哲学科の他講座との研究・教育上のつながりが戦後と比べてはるかに強かった。社会学の授業は4コマ程度しか開講されず、社会学専攻の学生は哲学科の他の講義を受講することを義務づけられていたのである(このことは戦後新制京都大学が発足するまで同様だった)。この時期の卒業生の職業は主に大学教員・公務員・僧侶などであり、大阪市社会部長を務めた山口正(1915年卒)や京大事務局長・日本学術会議事務局長等を歴任した文部官僚本田弘人(1925年卒)らも含まれている。

当時、文科大学の各講座では研究会組織を立ち上げる動きがあり、この時期に発足した研究会には今日まで活動を続けているものも少なくないが、社会学講座でも開設の翌年、1909(明治42)年4月に「京都帝国大学社会学会」が発足した。当時の記録には、

「◎社会学会 本会は昨年四月米田講師指導の下に設けられたり。教室に於ける研鑽が専ら純理の方面に限られたるに対し、本会は政策に関する攻究及其発展の機関にたらむことを期す。爾来例会に於ける講演は次の如し

社会政策の大本を論ず               高田保馬

売淫に関する政策論                   米田講師

プラトーン乱婚論                       高田保馬

軍人気質                                       米田講師」[4]

とある。年数回の例会と大会を開き、公開講演会の形をとった大会では数百名の聴衆を集めていたようである。報告テーマは学説研究ではなく現代社会論、社会意識論、社会政策などアクチュアルなものが多くを占めた。1914(大正3)年に哲学科各講座の研究会を総合して京都哲学会[5]が設立された後は、「社会学会」は「京都帝国大学社会学読書会」と改称され、その後も米田の自宅などでほぼ毎月例会を開いていた。

 

米田教授の辞職

1920(大正9)年7月に米田は教授に昇任したが、その4年後の1924(大正13)年12月に突然教授会の席上辞意を表明し、翌年3月末日付けで60歳の定年を待たずに辞職した。その理由についてはさまざまに推測されており、米田が被差別部落出身であったことから、文学部教授会の一部に彼に対する差別的態度が存在したとされることと関連づける解釈[6]がとりわけ有名であるが、米田自身が明言していないため、いまだに定説はない。米田の退官後、しばらく講座担当者不在の状態が続き、藤井健治郎教授(倫理学)と野上俊夫教授(心理学)が相次いで講座を兼坦することとなった。この間、フランスの科学思想史家アレクサンドル・コイレが一旦後任の講座担当者(時限つきだったらしい)に選ばれたが、結局赴任することなく辞退している。専門分野の異なる彼になぜ社会学を担当させようとしたのか、またなぜ米田の最大の後継者である高田保馬を採用しなかったのか、現在から見れば疑問が残る[7]

ともかく、専任教官が空席の期間、社会学の特殊講義や演習は藤井健次郎、西田幾多郎ら哲学科の教官も分担した(西田がマックス・ヴェーバーの『科学論集』を演習のテキストにした年もある)ものの、授業の多くは非常勤講師に委ねられた。戸田貞三、三浦新七、今井時郎、岩崎卯一のほか、東大経済学部に外国人教師として来講中のエミール・レーデラーもこの時に講義をしている。これらの多くは集中講義であり、哲学科教官による授業も他専攻との共通科目であったり、必ずしも社会学固有のテーマを扱ったものではなかったりしたため、しばらくの間は社会学の専門的教育にとってかなり不十分な環境しか提供されなかった。もっとも、米田は退官後も京大法学部・経済学部では引き続き講師として社会学を講義していたので、社会学専攻の学生もこれを聴講していたようである。

コイレの招聘が実現しなかったことを受けて、1927(昭和2)年4月に米田の門下生で3年前に京大を卒業したばかりの五十嵐(1900~28)が講師に採用されたが、将来を嘱望されながら不運にも翌年8月、在任わずか1年半にして病没した。五十嵐は形式社会学を中心とするドイツの社会学理論を研究し、ジンメル『社会的分化論』(1927年)の翻訳を遺している。論文は没後に編纂された『五十嵐信遺稿集』(1930年)に収められている。

 

⑵ 臼井教授時代(1928~63年)

 

臼井二尚

五十嵐の没後間もなく、五十嵐の1年後輩に当たる臼井二尚(1900~91)が1928(昭和3)年12月に講師に採用された[8]。臼井は2年間の独・仏・米国留学を経て1932(昭和7)年7月に助教授に昇任、翌年4月から社会学講座担任となった。なお、臼井の教授昇任までの期間は、文学部教授会における社会学講座代表は和辻哲郎教授、次いで天野貞祐教授(いずれも倫理学)であった。

ドイツ留学中にフッサールやハイデガーに師事した臼井は、戦前には現象学的視点やヴェーバーの理念型的方法を取り入れた社会学方法論と社会的行為・関係・集団の基礎理論に主として従事した。彼は民族論・階層論・共同体論等のテーマに関する論文を著し、授業でも毎年これらのテーマを特殊講義で扱った。臼井の主要な研究業績は退官後に公刊された『社会学論集』(1964年)に収録されている。

 

昭和戦前期の社会学教室

臼井は1933(昭和8)年より日本社会学会理事を務め、1935(昭和10)年5月には同学会の第10回大会が京大と同志社大学を会場として開催された[9]。臼井の助教授時代には松本潤一郎・古野清人・奥井復太郎らが学外から講師に招かれ、1937(昭和12)年度には東北帝国大学よりカール・レーヴィットが来講したが、主要科目は臼井が単独で担当した。戦時期には時流への順応を求める政治的・社会的圧力が強まり、1938(昭和13)年10月以降、臼井は文部省から紀元2600年奉祝記念事業の1つである『日本文化大観』体系篇「国家」の部の編纂を委嘱されたが、これは戦災のため刊行に至らなかった。また1939(昭和14)年10月に京大人文科学研究所が設立されると、臼井はその所員を兼務し、中国社会の研究にも携わった。1943(昭和18)年7月には戦争への召集を前にした学生たちによって村落調査が企画され、臼井の指導のもとに実施された。これが社会学教室における村落調査の嚆矢である。臼井は1944(昭和19)年9月に教授に昇任し、ようやく教授空席の事態が解消された(米田の講師時代なども含め、社会学講座100年の歴史上ほぼ3分の1の期間は教授ポストが空席であった)。

米田退官後の1926(大正15)年から1944(昭和19)年までに社会学を専攻して卒業した者は本科生92名、選科生2名の計94名で、1年あたりの平均卒業者数は5名弱だが、米田時代に比べて2倍以上になっている。また卒業後の進路としては大学教員とともに民間企業を選ぶ者の割合が高くなっている。

 

新制大学への移行

日本の敗戦後、社会学教室は臼井の指導のもと再出発し、戦争末期に活動を停止していた「社会学読書会」は1946(昭和21)年11月に再開された。1950(昭和25)年には「京都大学社会学研究会」と改称して年数回の例会を開くようになった。

戦後の学制改革により1949(昭和24)年に新制京都大学文学部、4年後の1953(昭和28)年に新制大学院文学研究科が発足すると、社会学教室にも大きな変化が生じた。旧制大学時代は入学者数が慢性的に定員割れだった京大文学部に毎年一定数の学生が入学した結果、学部全体の学生数が増えるとともに、社会学専攻(3回生への進級時に分属する制度になった)の学生数も増加した。1953(昭和28)年4月には最初の新制大学院生として文学研究科修士課程に進学した学生のうち、4名が社会学を専攻した。

教室スタッフについても1954(昭和29)年9月には大谷大学より池田義祐(1915~92)が助教授として来任し、ようやく専任教官が2名となった。翌1955(昭和30)年4月には益田庄三が初めて社会学講座の助手に採用された。これ以後ほぼ2年~4年の任期で交代した助手はいずれも教室所属の大学院修了者(ないし中退者)から採用され、教官を補佐して教室の事務や授業の一部(主として外国書の講読)を担当するようになった。なお、池田着任に先立って、教室配属の事務官として坂口清が採用され、1976(昭和51)年に停年退職するまで四半世紀にわたって教室の事務を取り仕切った。

戦後(1945~54年)旧制京都大学を社会学専攻で卒業した学生は113名(いずれも本科生)で、年平均は11名強と昭和戦前期に比べて倍増している。また臼井在任中の新制の卒業生(1953~63年)は98名で年平均9名弱である。この時期の学生には卒業後、大学や高校などで教職に就く者のほか民間企業に就職する者が多く、後者のなかでは特に新聞社・放送局・広告代理店といった業種の割合が非常に高いのが特徴的である。

 

他部局との関係

また、旧制第三高等学校を基盤として発足した教養部や新設の教育学部、人文科学研究所などに所属する社会学の教官が学内非常勤講師として社会学の授業を担当することにより、戦前と比べて開講される授業科目数も次第に増加していった。戦前から講師として出講していた重松俊明をはじめ、姫岡勤、江藤則義、清水盛光、渡邊洋二、作田啓一らが「研究」(旧制文学部の特殊講義にあたる)や演習・講読を担当するようになったのである。教養部にも社会学の教官ポストが置かれ、教育学部でも1950(昭和25)年9月から1955(昭和30)年3月まで臼井教授が併任教授として社会学と教育社会学を担当したこともあり、教養部の社会学教室および教育学部の教育社会学教室とは密接な関係が築かれた。以来、今日に至るまで関連諸部局教官の担当する授業は社会学教室の運営上不可欠な役割を担っている。

 

関西社会学会と『ソシオロジ』

この時期には、今日まで当教室と密接な関係を保っている2つの団体が発足した。一つは1950(昭和25)年に関西地区の社会学者や社会学専攻の大学院生らによって創設された関西社会学会である。この年の6月に京大で開催された第1回大会でその初代代表に臼井教授が選ばれた。臼井は1956(昭和31)年まで同学会の代表を、次いで1959(昭和34)年~1965(昭和40)年に委員長を務めた。臼井の後も当教室の教授がしばしばこの学会の委員長(1998[平成10]年以降は会長)に選ばれ[10]、その都度事務局を当教室が引き受けてきた。

また、1952(昭和27)年1月には「社会学研究会」(前述の同名の研究会とは異なり、当教室出身者のみを構成員とするものではない)により社会学の専門誌『ソシオロジ』が発刊された。創刊当初豊島覚城(編集代表)宅に置かれたその編集室は、第9号(1955年)以降は当研究室に置かれており、教室所属の助手や研修員等が編集事務を担当している。同誌は加入の自由な同人誌ではあるが、創刊以来、社会学専攻の大学院生にとって学界への登竜門として重要な存在でありつづけている。関西社会学会および『ソシオロジ』の運営にあたって、当教室およびその出身者は中心的な役割を果たしている。

 

社会学教室と社会調査

戦時期に中断されていた教室主催の村落調査は1947(昭和22)年7月に再開され、教室の学生たちを動員した恒例の行事として定着していった。これは臼井の考案した独自の集団類型論に基づいて設定された体系的な調査項目(臼井編『村落調査細目』[1969年]に記載されている)を適用して全国的規模で実施されたもので、調査地は京都府をはじめ青森から鹿児島にいたる30以上の府県に及んだ[11]。この調査は臼井退官後も池田教授のもとで1974(昭和49)年度まで続けられ、蓄積された膨大な調査データは村落調査の貴重な基礎資料となっている。

前述のように社会学教室は戦前と比べると格段に構成員と教育活動の点で充実したものになったが、それでも他の主要国立大学における社会学専攻と比較すると十分な規模とはいえず、講座の増設が重要な課題となってきた。とりわけ戦後経験科学としての性格を強めた社会学にとって社会調査に関わる講座の設置の必要性が高まった。1954(昭和29)年に池田義祐の助教授採用が決まった直後、臼井は社会調査を担当できる2人目の社会学助教授の選考を教授会に諮り、認められたが、結局適当な候補者が見当たらず、選考委員会は解散した。またこの頃から社会調査に関わる社会学第二講座の設置と社会学講座の実験講座化が文部省への概算要求に盛り込まれるようになった[12]

 

棚瀬助教授と文化人類学

この頃、社会学第二講座と並んで民俗学・民族学ないし文化人類学の講座についても設置の必要性が文学部で議論されており、こちらは戦前から概算要求に組み込まれていた。その要求は結局叶えられることなく終わったが、講座設置への布石として文化人類学担当の助教授を採用することが決まり、1959(昭和34)年4月に棚瀬襄爾(1910~64)が龍谷大学より社会学教室所属の助教授として来任した。東京大学文学部宗教学科出身の棚瀬は、マレーシアをはじめとする東南アジアの民族宗教の研究に取り組み、京大では文化人類学および宗教学の授業を担当するかたわら臼井とともに東南アジア研究センターの設立準備にも中心的役割を果たしたが、1964(昭和39)年12月に急逝した。棚瀬の博士論文は没後に『他界観念の原始形態』(1966年)として東南アジア研究センターより公刊された。後任の助教授は補充されずに終わり、文化人類学関係の授業は比較社会学客員講座が開設されるまでの間、一時中断されることもあったが、非常勤講師によって続けられた。

 

⑶ 池田教授時代 (1963~78年)

 

臼井教授から池田教授へ

1963(昭和38)年8月、臼井が京大を定年退官し(当時は63歳の誕生日をもって退官するのが規則だった)、35年に及んだ臼井時代が幕をおろした。臼井は在任中、1956(昭和31)年から1年弱の間文学部長を務め、東南アジア研究センターの設立にも重要な役割を果たしたほか、1954(昭和29)年から3年間日本社会学会会長を務めた。

臼井退官後、暫定的に倫理学の島芳夫教授が社会学講座を兼担したのち、1964(昭和39)年11月に池田助教授が臼井の後任として教授に昇任、1978(昭和53)年3月の退官まで講座を担当した。池田も臼井と同様に主としてドイツ系の社会学理論の研究とそれをベースにした農村・家族等の実証研究を行った。その研究成果は『支配関係の研究』(1978年)、『社会学の根本問題』(1985年)等にまとめられている。

池田教授の在任期間は高度成長期と重なり、教室の設備・予算面での拡充が進んだ。臼井教授時代には毎年10名前後だった卒業生数も増加し、60年代後半以降はコンスタントに2桁となった。臼井教授退官から池田教授退官までの期間(1964~78年)の卒業者数は236名、年平均15.7名である。この頃までには社会学専攻は文学部内でも有数の人気専攻になっていた。卒業生の増加に伴い、卒業後民間企業に就職する者の比率が前の時期より高くなっている。

 

『社会学教室ニュース』の創刊

臼井の退官後間もない1963(昭和38)年12月、教室所属の大学院生のイニシアティブによって『社会学教室ニュース』が発刊された[13]。初代の編集責任者は新睦人である。B5判、6~20ページほどの小冊子だが、主に院生によるエッセイや教室の近況、研究活動の紹介、アンケートや座談会等が掲載され、年数回の不定期刊で教室構成員のみならず卒業生にも有料で配布された。1979年3月発行の第55号をもって終刊となったが、今では池田教授時代の教室の様子を知る上で貴重な資料となっている。

 

研究室の獲得

1964(昭和39)年5月、文学部東館の増築の結果、文学部の各教室に新たな研究室が割り当てられ、社会学教室もようやく固有の共同研究室を獲得した。東館西側3階の旧臼井教授室とその南隣の部屋がそれである。前者は社会学資料室として現在の文学部新館に移転するまで30年余り使用されたが、大学院生のための研究スペースとして要求された後者は小さすぎて実際にはあまり利用されなかったようである。翌年3月に東館がさらに増築されて完成すると、大学院生の研究室は4階東側の池田教授室北隣に移転し、初めて院生用の実質的な研究室が確保された。この部屋(社会学共同研究室)には教室の予算で購入された図書も配架され、後には主に演習や研究会のための教室として使われるようになる。

 

心理・社会学科新設計画

1964年には、従来哲学・史学・文学の3学科から構成されてきた文学部に心理学・社会学両講座を拡大し独立させた「心理・社会学科」を新設する計画が文学部教授会に提案された。新学科設置の理由としては、心理学と社会学が実証的科学として高い共通性をもち、学科として統合することによってより基盤的かつ専門的な研究者養成が望まれること、両分野の専門的技術者への社会的需要が著しく高まっていることなどが挙げられた。その構成は、心理学専攻が基礎心理学・実験心理学・行動発達学・心理環境学の4講座、社会学専攻が理論社会学・文化人類学・応用社会学・産業社会学の4講座からなるものとされた。この案は1967(昭和42)年度から数年間概算要求に盛り込まれたが、実現を見る前に教養部からの反対等によって結局取り下げられ、第4学科設置の動きは一旦頓挫した[14]

 

東大との院生交流会

1966(昭和41)年3月には京都大学・東京大学の社会学専攻大学院生の交流会が京大を会場に3日間にわたって開催された。「パーソンズ、ダーレンドルフ、富永健一の産業社会論の問題について」、「戦後日本社会学の総括と展望」、「大学院生の研究生活」の3つのテーマをめぐって両大学の院生による報告と討論が行われたが、2大学間だけの交流に限定すべきでないという意見もあり、この交流会は1回限りで終わった。

 

中助教授の着任

1966(昭和41)年4月、しばらく空席になっていた助教授に中久郎(1927~2005)が着任した。中は新制京大文学部の1期生で、主としてデュルケーム研究や社会病理学、共同性論等の研究で成果を上げた。その研究業績は『デュルケームの社会理論』(1979年)、『共同性の社会理論』(1991年)、『社会学原論』(1999年)等に結実している。中が米国留学後の1973(昭和48)年から大学院生とともに「パワーエリート研究会」を組織して始めた国会議員の経歴に関する統計的研究は、1969(昭和44)年に開設された京大大型計算機センターのコンピューターを当教室が本格的に利用した最初の事例となった。その成果は『国会議員の構成と変化』(1980年)として公刊されている。

 

大学紛争

1968(昭和43)年から翌年にかけて全国の大学を巻き込んだ大学紛争は、京大では1969(昭和44)年にピークを迎え、この年の3月から9月まで文学部本館・東館が学生によって封鎖される事態に至った。社会学教室でも院生・学部生から教室の運営のあり方についてのさまざまな疑問や不満がこの機会に表明され、改革要求となって教官に突きつけられた。教室所属の教官・学生全員による会議や団交が同年1月以降何度も開催され、大学院演習の個別評価の廃止やカリキュラムの改革等が要求された[15]。その一部は受け入れられ、従来1科目しか開講されていなかった大学院演習は1970(昭和45)年度から3科目に増加している。そのうち第Ⅲ演習は当初院生の自主ゼミに基づいてテーマを決めたものであり、毎年教養部教官が担当した。江藤則義・作田啓一・吉田民人・高橋三郎が交代で開講したこの大学院演習は1987(昭和62)年度まで続いた。

臼井教授時代から続けられ、3回生に義務づけられていた恒例の村落調査に対して、この頃には学生からその意義を疑問視する意見が強まり、69年には中止されるに至った。翌年再開されたが、すでに希望者のみが参加する行事となっており、1974(昭和49)年度をもって打ち切られた。また、ハイキングや一泊旅行といった教室の恒例行事も紛争を境に行なわれなくなった。

比較社会学講座の設置

1975(昭和50)年に社会学講座の実験講座化が実現したのに続いて、翌1976(昭和51)年5月には大学院講座として比較社会学客員講座が設置され、併任の教授・助教授および助手のポストが新設された(大学院講座の設置はこれ以外にも概算要求に盛り込まれたが、実現したのはこの講座のみである)。これにより専任教官は助手1名増員にとどまったものの、大学院の授業科目数は増加し教室の予算も増額された。まず同年10月にこの講座の助手に橋本満が採用され、翌年7月には初代の併任教授に当教室出身者である東南アジア研究センター教授の水野浩一(1933~79)が、そして1979(昭和54)年4月には併任助教授に奈良女子大学の新睦人(1936~)が就任した。水野は在任2年余りで病没したが、水野の後を受けて東南アジア研究センターの坪内良博(1938~)と加藤剛(1943~)が相次いで併任教授として大学院の授業を担当した。また新退任後の併任助教授は濱口恵俊(1931~)、筒井清忠(1948~)、落合恵美子(1958~)が務めた。

歴代の併任教官は大学院の授業を担当したほか、修士論文や卒業論文の審査にも副査として加わった。なお、70年代後半頃から卒論・修論の審査にあたっては併任教官のほかに教養部の作田啓一・高橋三郎・高橋由典・高沢淳夫や東南アジア研究センターの前田(立本)成文、人文研の富永茂樹といった他部局の社会学担当教官にも協力を依頼することが慣例となり、これは総合人間学部創立後の1994(平成6)年度まで続いた。

 

⑷ 中教授時代(1978~91年)

 

池田教授から中教授へ

1978(昭和53)年3月、池田教授が停年退官し、同年8月に中助教授が教授に昇任した。池田の退官後、旧池田教授室は比較社会学研究室として教室に残された。1980(昭和55)年4月には中の後任の助教授として宝月誠(1941~)が大阪府立大学より来任した。中教授退官までの13年間は大学紛争の余塵がおさまってから国立大学の制度改革が本格化するまでの期間に当り、文学部にとっても社会学教室にとっても相対的に変化が少なく安定した時代であったといえよう。この時期(1979~91年)に社会学を専攻して卒業した学生は229名、年平均17.6名となり、池田教授時代よりさらに増えている。

 

社会人間学講座の設置

1986(昭和61)年3月、待望久しかった教室の2番目の講座(実験講座)として社会人間学講座が設置され、翌年1月に宝月助教授がその初代教授に就任した。宝月は相互作用論やシカゴ学派の研究と並んでとりわけ逸脱行動に関わる理論的・実証的研究で学界をリードする業績をあげ、『逸脱論の研究』(1990年)、『社会生活のコントロール』(1998年)等の著書を著した。1987(昭和62)年度から宝月教授により「社会人間学」講義が開始され、社会学の講義は中教授の「社会学概論」とあわせて2科目になった。なお、1992(平成4)年入学者よりこれら2科目とも社会学専攻学生の必修科目となったが、1995(平成7)年入学者から必修の講義は1科目に戻された。また、講座新設に先立つ1983(昭和58)~86(昭和61)年度には社会学専攻者の増加に伴う教員の負担を軽減するため、学部学生の定員が20名から15名に削減されたが、実際にはこれを上回る数の学生を受け入れている。

1989(平成元)年4月、2年前から併任助教授を務めていた筒井清忠(1948~)が社会学講座の助教授として赴任し、2講座体制(比較社会学講座も加えれば3講座体制)が実質化すると、カリキュラムの編成にも変化が生じた。1987年度から3回生向け演習で、1989年度からは大学院演習でも、専任教官が個別に授業を開くようになったのである。長い間1講座体制のもとで大学院生の指導は教室全体で行われてきたが、これ以降は院生が演習を選択できるようになり、学生が特定の指導教官につく傾向が強まった。

 

主要な研究会と調査プロジェクト

教室の恒例行事としての村落調査が前述のように終わった後、各教官によって個別に研究会と社会調査が組織された。中教授はパワーエリート研究会に続いて「戦時下日本社会における民族問題研究会」(通称「民研」)を1982(昭和57)年に発足させ、高橋三郎教養部助教授、坪内良博併任教授らの協力のもとに戦時期の日本社会に関する歴史社会学的共同研究を組織した。このほか、教室メンバーがこの時期に関わった主要な調査プロジェクトとしては、益田庄三講師による「地域社会研究会」、中道實講師による「都市女性研究会」、宝月助教授による薬害の研究、田中滋助手による「古都税問題研究会」などがある。調査実習の授業が必修化されるのはずっと後のことで、この頃の学生は任意でこれらの研究会に加わることによって社会調査の技法を習得していた。

また、1983(昭和58)~1984(昭和59)年頃に大型計算機センターの端末機1台が共同研究室に設置されるとともに、当時普及しはじめていたワードプロセッサーやパーソナルコンピューターも少しずつ購入され、研究環境の改善が進んだ。

 

社会学研究会のその後

前述のように、社会学教室では明治以来「社会学研究会」を定期的に開催してきた。戦後は「定例研究会」、「恒例の研究会」等と呼ばれ、年に数回の割合で学外から講師を招いて講演会の形で続けられていた。これにはもともと教室の卒業生を講師に招いて同窓生どうしの交流を図るという趣旨も含まれていたが、それが現役院生・学生の関心とは必ずしも合致しないこともあり、1985(昭和60)年頃を最後に開かれなくなった。教室の構成員が増加したせいもあり、教室全体による恒例の公式行事はこの頃からほとんどなくなった。これは1979(昭和54)年の『社会学教室ニュース』終刊と相俟って、教室とその同窓生の連帯が弱まってきたことを示す出来事であった。教室主催の講演会は現在に至るまで随時開かれている(1978[昭和53]年12月にはタルコット・パーソンズの講演会も開かれた)が、教室主催の定期的研究会という形ではもはや開かれていない。

 

⑸ 大学改革の時代(1991年~)

 

中教授退官後の教室

1991(平成3)年3月に中久郎が停年退官し[16]、代わって宝月教授が教室主任を引き継いだ。社会学教室は新たな時代を迎え、新学科への移行、大講座化、大学院重点化と続く一連の戦後最大の改革を経験することになる。

1993(平成5)年4月には松田素二(1955~)が大阪市立大学より社会人間学助教授として来任、次いで翌年1月に筒井が中の後任として社会学講座担当教授に昇任した。松田はアフリカ地域研究・地域社会学を専門とし、Urbanisation from Below (1998)、『抵抗する都市』(1999年)など文化人類学と社会学にまたがる研究成果をあげている。筒井は近代(特に両大戦間期)日本社会を対象とする歴史社会学的研究を専門とし、京大赴任以降は『日本型「教養」の運命』(1995年)等の著作を著した。

1993年には文部省による大学設置基準の大綱化を受けて京大教養部が独自の学生をもつ学部へと再編され、総合人間学部が発足した。これに伴い、総合人間学部(および1991[平成3]年発足の大学院人間・環境学研究科)は社会学の名を冠する講座や教室をもたないものの、実質的に社会学を専攻する学生をかかえるという新たな事態が生じた。

 

文化行動学科の新設

前述のように文学部に第4の学科を設置することは1960年代に一度「心理・社会学科」新設計画として具体化したものの実現を見ぬままになっていたが、80年代末になって再び新たな形で概算要求に組み込まれ、1992(平成4)年4月に言語科学・心理学・社会学・地理学・科学哲学科学史の5専攻からなる文化行動学科として実現した。これによって、社会学教室は創設以来所属していた哲学科から心理学教室とともに離脱し、経験科学としての性格を以前にも増して明確化することになった。

 

『京都社会学年報』の創刊

1994(平成6)年3月には社会学教室発行の紀要『京都社会学年報』が創刊され、主として教室所属の大学院生による研究発表の媒体として毎年1号ずつ刊行を続けている。その編集は教室専任教員と大学院生が共同で行ない、投稿論文の査読は執筆者による相互チェックを経て教員が担当している。同誌は教室と関係の深い社会学者のほか、社会学関連の専攻をもつ全国の主要大学に送付されている。

 

大講座化と大学院重点化

1995(平成7)年4月、京大文学部は大学院重点化の準備段階として4つの学科を人文学科に統合するとともに6つの「系」に再編し、すべての講座を大講座にする改組を行なった。これにより文化行動学科は廃止され、社会学大講座は心理学・言語学・地理学とともに「行動文化学系」(学部学生の所属単位としては「行動・環境文化学系」)を構成する一「専修」となった。新たな社会学講座は社会学・社会人間学・比較文化行動学3分野に再構成され、同時に他の教室と同様に助手ポストを教授・助教授ポストに振り替えた結果、専任教官は教授3名、助教授2名の定員となった。これに先立って1994(平成6)年3月に転出した助手の補充が行なわれず、助手は1名となった。

翌1996(平成8)年には文学部の専任教官の所属がすべて大学院文学研究科に移行する大学院重点化が行なわれた。重点化によって大学院修士課程・博士後期課程の定員が大幅に増員された上、それまでと違って定員充足が求められるようになった結果、社会学教室でも毎年受け入れる大学院生の数が激増した。修士課程の入試合格者は従来毎年3~5名程度だったが、これ以降は5~11名となった。また、比較社会学の講座は大学院重点化の際に客員講座の総合文化学講座(大講座)に吸収されたが、それ以後も同講座の客員教授・客員助教授各1名は従来通り社会学教室に割り当てられることが慣例になっている。また、それまで助手が担当してきた教室の事務を担当する事務補佐員として1996年5月に松居和子が採用された。この際、社会学専攻のカリキュラムにも変更が加えられ、1997(平成9)年度より社会学実習が必修科目に加えられた。これまで自由選択科目としてほとんど非常勤講師に委ねられていた社会調査関係の科目が、これによってようやく社会学専攻学生全員に課されることになった。実習は毎年2~3科目開講され、学生は量的調査・質的調査のいずれかを選択できるようになっている。さらに、2000(平成12)年度以降の社会学分属者に対しては、従来必修としてきたドイツ語・フランス語の講読をはじめて必修科目から外した。

 

改組後の教官の異動

1996(平成8)年4月、比較文化行動学分野担当の初代教授として大阪大学より井上俊(1938~)が来任した。井上は文化社会学(特に芸術社会学やスポーツ社会学)・コミュニケーション論等の分野を専攻するわが国を代表する社会学者であり、著書に『死にがいの喪失』(1973年)、『遊びの社会学』(1977年)、『スポーツと芸術の社会学』(2000年)、共編著『岩波講座現代社会学』(1995~97年)等がある。退官後の2006(平成18)年からは日本社会学会会長の要職に就いている。続いて1998(平成10)年4月に田中紀行(1962~)が助教授として奈良女子大学より転任し、これによって客員部門も含めて教官定員が完全に充足された。田中は社会学史、特にヴェーバーおよびヴェーバー派社会学理論の研究とそれを基礎とする歴史社会学の分野で研究を進めている。

また、比較社会学講座の併任教官は、1997(平成9)年以降職名が客員教授・客員助教授と改称され、学内他部局の教官を充てることが不適当になったため、代々東南アジア研究センターの教授に委嘱してきた教授職も含め、2001(平成13)年度以降は他大学の教員に依頼することになった。また、「比較社会学」という名称も講義題目等には残っているとはいえ、制度上はなくなり、必ずしも比較社会学的研究を専門としない研究者を客員教官に採用するようになってきている。今世紀に入ってから客員教授には高坂健次(1944~)・岩井紀子(1958~)・中河伸俊(1951~)、客員助教授には秋津元輝(1960~)・石田佐恵子(1962~)・吉川徹(1966~)が就任し、専任スタッフのカバーできない研究分野に関して大学院生の指導に携わっている。

 

研究室移転と情報環境の整備

1997(平成9)年8月、文学部の旧本館を一部取り壊した跡に建設された8階建ての文学部新館が完成し、社会学関係の研究室はほとんどがその5階に移転した。これによって従来東館の2階から4階に散在していた研究室がはじめて一箇所にまとまった。この際、社会学調査実習室が設置され、コンピューターや複写機が置かれた。ここは社会調査実習の授業に利用されるとともに不十分ながら学生の自主的な勉学のスペースとしても利用されている。

なお、これに先立って吉田純助手の手によって教室の情報処理環境の整備が進められ、1993(平成5)年10月に教室独自のメールサーバーが設置されてsocio.kyoto-u.ac.jp ドメインが発足した。これは文学部内では心理学教室に次いで2番目のものである。さらに1996(平成8)年には教室の公式ホームページ(URLはhttps://www.socio.kyoto-u.ac.jp/)も開設され、現在まで教室の広報活動等に役立っている。

 

セクシュアル・ハラスメント問題

社会学教室の新体制が確立されて間もない2000(平成12)年10月、教室所属の一教官の関わるセクシュアル・ハラスメント疑惑が発覚した。同年3月に卒業した社会学専修の女子学生がその指導教官から卒論指導の名目で受けた一連の行為がセクシュアル・ハラスメントに当るとの訴えが、大学のセクシュアル・ハラスメント相談窓口に持ち込まれたのである。文学部では前例のないこの事態に対し、教室スタッフは対応に追われることになった。この問題については、文学研究科教授会に設置された委員会による調査と教授会での懲戒処分案の決定を経て、翌年6月に評議会で停職3箇月の停職処分が下された。当該教官は停職期間が終わった後も病気を理由に職務に復帰せず、2003年8月に辞職した。

社会学教室ではこの事態を受けて従来の教育指導体制を見直すことになり、それまで各学生に特定の教官を割りあてて指導教官としてきた制度を廃止し、4回生向けの卒論演習は2002(平成14)年度以降、全教官が合同で行なう形に戻した。その後も指導体制については院生・学部生との協議を継続している。

 

21世紀COEプログラムと「京都大学社会学環」の発足

2002(平成14)年、文部科学省が始めた「21世紀COEプログラム」に京大文学研究科(心理学を除く)が申請したプロジェクトが採択されたが、これとは別に社会科学部門に社会学教室を中心とする研究組織が応募することになり、11月以降、学内の諸部局(文・教・農・総人・人環・人文研・留学生センター)に在籍する社会学および周辺分野(文化人類学、教育学等)の研究者約20名を集めて検討が行なわれた。この際、学内の社会学者どうしの連携がそれまで不十分であったことから、応募の主体として非公式のネットワーク「京都大学社会学環」(代表・富永茂樹人文研教授)が組織され、教育・研究上の相互協力を促進していくことが図られた。COEプログラム自体は結局不採択となったものの、社会学環は研究会活動等を通して続けられている。社会学教室の教官は文学研究科の「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」プロジェクトのなかの研究班「多元的世界における寛容性についての研究」(リーダーはキリスト教学の芦名定道助教授)にキリスト教学教室関係者とともに加わり、2006年度までにシンポジウムや研究会を開催し、論文集『多元的世界における寛容と公共性—東アジアの視点から—』(芦名編、2007年)に研究成果をまとめた。

 

社会調査士資格認定科目の開設

2003(平成15)年11月に日本社会学会・日本教育社会学会、日本行動計量学会を母体として社会調査士資格認定機構が発足し、社会調査士・専門社会調査士の資格認定を始めた。京大社会学教室でも翌2004(平成16)年度よりこれらの資格を取得するのに必要な授業科目を提供することになり、学内・学外の非常勤講師の協力を得て全10種類の社会調査関係の科目(うち9科目は半年の科目。また3科目は大学院科目)が毎年開講されるようになった。これによって、当教室で伝統的に手薄な分野であった計量的調査を含め、社会調査を体系的かつ継続的に教育する体制が整った。

なお、上記の科目の1つでもある、松田教授により1996(平成8)年度に開始された調査実習は、1998(平成10)年度以降は三重県東紀州地域をフィールドとして続けられている。これは全学生の必修科目ではないものの、教室の恒例行事として定着し、毎年受講生による報告書『地域にまなぶ』を刊行している。

 

教官の世代交代

今世紀に入ってからは2002(平成14)年3月に井上、2003(平成15)年8月に筒井、2005(平成17)年3月に宝月が相次いで退官し、代わって2002年4月に松田が井上の後任の比較文化行動学分野担当教授に昇任、翌年4月にそれまで比較社会学併任助教授を務めてきた落合恵美子が前年度に社会人間学助教授として国際日本文化研究センターより転任した。こうしてわずか数年でスタッフの顔ぶれが大きく入れ替わった。また、重点化の際になくなることが決まっていた助手ポストは、最後の助手吉田純の総合人間学部への転出によって2001(平成13)年度には完全に消滅した。

落合は2004(平成16)年4月には社会学分野担当教授に昇任し、翌2005年4月には伊藤公雄(1951~)が社会人間学分野担当の教授として大阪大学より来任した。東京大学出身の落合は家族社会学・歴史人口学を専門とし、アジア地域の家族の比較研究でも成果を上げている。著書に『近代家族とフェミニズム』(1989年)、『21世紀家族へ』(第3版2004年)、編著『徳川日本のライフコース』(2006年)などがある。また伊藤は文化社会学・ジェンダー論・スポーツ社会学を専門とし、男性性研究の草分けとして知られている。著書には『光の帝国/迷宮の革命』(1993年)、『男性学入門』(1996年)、『「男女共同参画」が問いかけるもの』(2003)などがある。

 

現在の社会学教室

1990年代以降、特に大学院重点化以降の学生の動向をみると、専攻希望者が増えて定員(20名)を超過する人数を受け入れるのが常態となった。1992(平成4)年から2007(平成19)年までの学部卒業者は388名、年平均24.6名である。30名を超える新3回生を迎えた年もあり、その後一時減少したが、伊藤教授着任後は再度定員を上回る新入生を迎えている。また、かつて少数だった女子学生の比率が高まり、現在は学部生では男女ほぼ半数ずつになっている。

大学院重点化以降、学部学生以上に急増したのは大学院生である。修士修了者数の変化を見ると、1997(平成9)年までの43年間の平均が3.8名であったのに対し、1998(平成10)年以降の10年間は平均6.9名である。従来は修士課程進学者の大半が博士後期課程進学と大学への就職を希望していたのに対し、重点化以降は、博士後期課程に進学せず、学部卒業者と同様に民間企業や官公庁に就職する学生が増えた。また、博士後期課程を終えてから大学に就職するまでの期間が長期化し、近年では課程博士号を取得してから就職することが多くなっている。さらに、世界各国(中国・韓国・タイ・フランス・イギリス・スウェーデン・ハンガリー・イスラエル・ブラジル・ニュージーランド等十数カ国に及ぶ)からの留学生もこの間に増加し、修士号や博士号を取得して帰国するケースも今では珍しくなくなっている。

こうして今や教室は学部内で最大級の大所帯となり、研修員や聴講生・研究生なども含めた教室構成員の総数は1995(平成7)年以来100名を超えるのが常態化し、多い年には130名以上に達している。これは1960年代と比べると2倍近い規模である。

またこの間、京大の他部局で社会学やその関連分野を担当する教員が増加し、毎年特殊講義等を委嘱する学内非常勤講師の数も増えて近年では十数名にのぼっている。これは他部局との共通科目が増えた結果でもあり、そうした授業を通じて他学部・他研究科との学生どうしの交流も進みつつあるようだ。

この10年余りの間に学生の研究テーマにも変化が見られ、かつて盛んだった学説・理論研究を志す学生が今ではきわめて少数になる一方、文化社会学・歴史社会学・地域社会学等の経験的研究をテーマに選ぶことが大勢になり、その関心は細分化しつつある(これは京大に限らない全国的傾向ではある)。こうした長期的趨勢を受けて、2005(平成17)年からは大学院入試においてもドイツ語・フランス語の問題を選択せずにすむ措置を導入した。こうした動きと並行して、重点化以降とりわけ大学院では—文学研究科全体に関わる問題ではあるが—学生の質にも変化が生じてきた。かつては「教えず、教えられず」といった自学自習の態度が教室の不文律になっていた(これは社会学の扱う領域の広さに比べて教員数が少なすぎたためでもあろう)が、今後は自由な学習環境を維持しながら、基礎的トレーニングと各個別分野の専門的指導にも一層努力することが求められていくものと思われる。

 


[1] 谷本富による文科大学の創立当初の構想では、社会学講座の担当者には遠藤隆吉が想定されていたようである(『京都大学百年史』写真集[1998年]、pp. 26-27掲載の資料を参照)。

[2] 米田の生涯と著作を概観したものとして中久郎『米田庄太郎』(2002年)および奈良県教育委員会編『米田庄太郎—人と思想』(1998年)がある。

[3] 『京都大学文学部五十年史』(1956)、p. 259。

[4] 「彙報」『藝文』第1巻第1号(1910年1月)、p. 158。

[5] なお、現在に至るまで社会学講座の専任教官は代々京都哲学会に委員として加わっている。

[6] 桑原武夫「人間の戦い」『部落問題』14号(1950年)に記されている桑原隲蔵(米田の同僚の東洋史家)の証言がその根拠とされる。これに対する反論としては中、前掲書、p. 17-26を参照。

[7] この時、高田保馬を講師とする人事すら教授会で否決されている(京都大学文学部教授会議事録)。

[8] 臼井の講師着任の日付は、『京都帝国大学文学部三十周年史』(1935)p. 254や『京都大学文学部五十年史』p. 367では昭和3年4月4日とされているが、これは誤りである。

[9] なお、臼井の在任中にはさらに1948(昭和23)年6月(同志社大学と共催)、1961(昭和36)年10月の2度にわたって日本社会学会大会が京大を会場に開催されている。

[10] 臼井以後の歴代教授の同学会委員長・会長在任期間は次の通りである。池田教授:1977~1983年、中教授:1983~1989年、宝月教授:1998~2001年、井上教授:2001~2004年、伊藤教授:2007年~。

[11] 各年度の調査地は京都大学文学部社会学研究室編『鳥取県における一漁村の変容』(1980)、pp. 138-39の一覧表に記載されている。

[12] 文学部教授会議事録および教授会資料による。

[13] これ以前にも1957年、同様に院生の手によってガリ版刷りの『社会学研究室だより』が発行されたことがあったが、長くは続かなかった。

[14] 文学部教授会議事録および教授会資料。

[15] 『社会学教室ニュース』第29号(1969)、第30号(1970)の記事を参照。

[16]中は1986(昭和61)年4月より2年間文学部長を務め、また退官前年の1990(平成2)年11月には29年ぶりに日本社会学会大会の開催校を京大で引き受けた。

 

歴代専任教員

氏名

講師

助教授*

教授

着任

退任

着任

退任

着任

退任

米田庄太郎 1907.9.11 1920.7.4 1920.7.5 1925.3.31
五十嵐信 1927.4.11 1928.8.30
臼井二尚 1928.12.10 1932.7.10 1932.7.11 1944.9.12 1944.9.13 1963.8.27
池田義祐 1954.9.1 1964.10.31 1964.11.1 1978.4.1
棚瀬襄爾 1959.4.1 1964.12.10
中久郎 1966.4.1 1978.7.31 1978.8.1 1991.3.31
宝月誠 1980.4.1 1986.12.31 1987.1.1 2005.3.31
筒井清忠 1989.4.1 1993. 12.31 1994.1.1 2003.8.31
松田素二 1993.4.1 2002.3.31 2002.4.1
井上俊 1996.4.1 2002.3.31
田中紀行 1998.4.1
落合恵美子 2003.4.1 2004.3.31 2004.4.1
伊藤公雄 2005.4.1
太郎丸博  2009.4.1
比較社会学講座併任・客員教員一覧
併任教授・客員教授
氏名 着任 退任
水野浩一 1977.7.1 1979.10.11
坪内良博 1982.4.1 1994.3.31
加藤剛  1994.4.1 2001.3.31
高坂健次 2001.4.1 2003.3.31
岩井紀子 2003.4.1 2006.3.31
中河伸俊 2006.4.1 2011.3.31
田中滋 2011.4.1 2012.3.31
鵜飼孝造 2012.4.1
併任助教授・客員助教授*
氏名 着任 退任
新睦人 1979.4.1 1981.3.31
坪内良博 1981.4.1 1982.3.31
濱口恵俊 1983.4.1 1986.3.31
筒井清忠 1987.4.1 1989.3.31
落合恵美子 1996.4.1 2003.3.31
秋津元輝 2003.4.1 2005.3.31
吉川徹  2006.4.1 2008.3.31
太郎丸博 2008.4.1 2009.3.31
 田野大輔  2009.4.1  2010.3.31

*2007年4月より准教授